バナナ民衆交易で地域社会を再生する 18年目のバランゴンバナナ(社会貢献活動レポート|2007年5月)

2007年5月1日

1980年代に起きた世界的な砂糖価格の暴落で、砂糖が主要産業となっていたフィリピン・ネグロス島は大きな打撃を受けることとなりました。多くのサトウキビ労働者が職を失い、飢餓により子どもたちは次々と幼い命を奪われていきました。食糧援助や寄付では根本的な問題解決にはならない、農民が経済的に自立することが必要、とはじめられた「民衆交易」。それがネグロスのバランゴンバナナを日本の消費者に届けることでした。今でこそ「フェアトレード」という言葉は一般的ですが、バランゴンバナナはフェアトレードの先駆けだったのです。18年目を迎えた現地の様子を、オルター・トレード・ジャパンフィリピン駐在の幕田恵美子さんにお聞きしました。

こうして始まった民衆交易

1985年頃、フィリピンに関わっているNGOやグループのつくる連絡会に「ネグロスで子どもたちが飢餓で死んでいる」との情報が入ってきました。当時、演劇やワークショップなどを通じて文化交流活動に取り組んでいた堀田さん(現オルター・トレード・ジャパン代表)は、「ネグロスの子どもたちに生きる力を与えるような」具体的な活動が必要と考え、「日本ネグロス・キャンペーン委員会」を立ち上げました。

委員会は、日本各地で講演会やコンサートを通じて、ネグロスがなぜ飢餓になったのかを訴えました。フィリピン人のデッサ・ケサダさんはネグロスの状況を訴えるメッセージソングを集会で歌いました。これらの活動により、委員会には多額の寄付が集まりました。

しかし、堀田さんは「交易活動」をやりたいと考えていました。生産者が自立するためには、一方的な寄付や食糧援助ではなく、日本の人々とネグロスの人々のお互いで、何かを変えていくための行動が必要と考えたのです。そうした時に、物流システムのある生協と出会ったのです。

当時日本で手に入るバナナは、大規模プランテーションでつくられた、きれいだけれど農薬漬けのバナナ。日本には、「農薬を使っていないバナナがほしい」という生協組合員がいる一方、ネグロスでは、バナナは裏庭に自生しています。1989年のテスト出荷・輸入を経て、1990年からいよいよバナナの民衆交易が本格的に始まりました。

お互いの暮らしを変える

ネグロスの人たちにとってバナナは勝手に生えているもの。手入れをするものではなく「ほったらかし」なものだったそうです。

「なぜバナナの手入れをしなければいけないのか」というお年寄りが今でもいるのだそう。幕田さんたちは、「商品作物をつくるためにはきちんと育てることが必要」「届いたバナナが食べられなければ消費者に申しわけない」と説得し、擦れを防止するための袋かけや葉っぱの手入れなどを指導してきました。そんな苦労の甲斐あって、生産者はバランゴンバナナを栽培することで定期的な収入が得られるようになり、心にゆとりまで持つことができたといいます。

プランテーション栽培のきれいなバナナを見慣れた日本の消費者にとってバランゴンバナナは衝撃でした。軸が腐らないのも、傷がなくきれいなのも農薬のせいだったと気付かされました。「バナナ交易の経済活動によって、貧しい人たちの生活を変えるためには、日本人の食生活を変えることが必要」と幕田さんは言います。アジアを食いつぶす日本…日本の食生活が変わらない限り、アジアの農業は変わらないからです。

画期的!ネグロス式集荷システム

バランゴンバナナの生産者については組合員もバナナに入っている小さなニュースで情報を得ていますが、幕田さんは「バナナが届くまでには、産地を回って集める人、箱詰めする人、マニラまで運ぶ人、送り出す人、日本で受け取る人、そして配達する人と、多くの人が関わっていることを知ってほしい」と言います。

以前は、出荷の際にバナナを何本集められるかは、集荷するまでわかりませんでした。しかし今では今週の集荷量を把握できるようになったのです。この画期的なシステムは、「バナナの花が一定の状態になったらタグ=リボンをつける」という方法です。例えば、今週はオレンジのタグをつけると、約9週後が収穫時期です。各産地には地域担当者(フィールドアシスタント)がいて、その週何本タグを配ったかを記録しており、地域担当者たちから寄せられるタグの本数が全体で集計されていきます。タグをつけたあとも台風でバナナが倒れたり、タグの付け忘れや付け間違いなどがあるので、地域担当者が回ってチェックします。地域担当者は高齢者の袋がけを手伝ったりもしていて、地域の助け合い運動のようでもあるそうです。

未来が見える地域社会づくりに向けて

バランゴンバナナの生産者の多くはバナナの収入を子どもの教育費に当てています。高校ばかりでなくカレッジにも入れたい。しかし、教育を受けた子どもたちを受け入れる産業は地域にありません。このため、子どもたちは都市部に出て行ってしまいます。幕田さんたちは、「バナナの交易という自分たちの経済活動から、次の生産に投資し、地域開発をしていってほしい」と考えています。生産者の取り組みが、バナナの単作から野菜や有畜複合農業などに広がっていけば、地域にあらたな産業が生まれ、若者たちも地域で働くことができ、地域を活性化させることができます。そこで生産者に働きかけ、2006年から地域に「生産者協会」をつくり、バナナ1本当たり5センタボ(1ペソ=100センタボ/0・125円=12銭)を貯金、地域共同資金としました。僅かな金額の積み重ねですが、地域全体で考え、使っていく資金となります。

ようやく生活が安定しはじめてきた今、子どもたちが帰ってこられるような地域をどうつくっていくかが、バランゴンバナナ生産者たちの新しい課題です。

*本ページの内容は2007年5月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合があります。あらかじめご了承ください。