4年半ぶりの帰島をボランティアが支援 火山ガスが流れても「ふるさとの暮らし」取り戻したい(社会貢献活動レポート|2005年12月)

2005年12月1日

2000年6月に始まった三宅島雄山の噴火によって島民は同年9月、全島避難指示に従い三宅島を後にしました。そして2005年2月の避難指示解除まで、4年半にわたる避難生活を余儀なくされました。パルシステム連合会は、避難直後に設立された「三宅島災害・東京ボランティア支援センター」の活動に参加。三宅島支援の活動を続けるとともに、島の特産品を商品カタログで扱うなど支援を続けてきました。また2005年2月から8月まで実施された「三宅島島民帰島支援ボランティア事業」にも毎回ボランティアを派遣し、島民の皆さんの生活復興に汗を流してきました。
ボランティアとして参加した連合会の事業支援・くらしサポート事業本部共済事業部FP事業課長・吉村一正さんに三宅島の現状と、参加した思いについてお話を伺いました。

三宅島

吉村さんが参加したのは2005年7月17日から23日まで。17日の夕方、一行7人で竹芝桟橋を出港、翌日早朝、三宅島へ到着。その後ボランティア事務局・宿舎である伊豆地区の老人福祉施設に行き、ここで支援の内容の説明があり、派遣先が決められました。吉村さんは、阿古地区のお宅での体験を語ってくださいました。

吉村一正さん

カヤが家を覆い隠す

「出かけてみて驚きました。4年間無人だった家はカヤと竹が生い茂り、見通せた海が全く見えないのです」。カヤを刈り、竹はのこぎりで切り、おとな二人でやっと抱えられるようなカヤの根っこを掘り起こします。「スコップを三本折ってしまいました。『吉村さん、根を全部切ってからでないとだめだよ』って言われてしまって」。庭のカヤを刈っていると、現れた小さな墓。このお宅の愛犬の墓でした。カヤを払うたびに、ひとりっきりになってしまったこの方の、この家での生活が次々に現れてきて、胸に迫るものがありました。家を覆っていたカヤがやっと取り払われ、何とか海からのそよ風が、吹きぬけるようになりました。派遣先の方もとても喜んでくださったそうです。

掘り出したカヤの根

三宅の風が懐かしい

島はまだ火山ガス(SO2)の放出が続いています。島内全域で、環境基本法に基づくSO2の環境基準を満たしていないのが現状です。そのため島内ではガスマスクの携帯が義務付けられており、0.2ppmを超えると注意報や警報が発令されます。夜中に何度も警報がなり、吉村さんも眠れない夜を過ごしたそうです。三宅島の状況を考えると、地震によって被災した新潟や神戸などの状況とは違うと、吉村さんは感じています。それは、「この状況から元に戻るのか、戻らないのか? 戻るとしても気が遠くなるほど時間がかかるのではないか」と言うこと、そして「SO2という暮らしに付きまとうリスクの大きさ」です。

作業の合間にボランティアの皆さんと

吉村さんは「SO2で自由に歩き回ることもできない島に、なぜいま帰りたがるのか」わからなかったといいます。生活に必要なインフラもまだ完全に復旧しておらず、人も戻っていないため店舗も少なく生活は不自由です。島がそんな状況なのになぜ、戻りたいのか、それはふるさとだからなのか、東京のほうが便利ではないのか…。しかし、ボランティアとして島で過ごし、島の人たちと交流しているうちに、『東京の団地に入居した島民にとって、東京という場所がつらかったのではないか、島とは違う人間関係がつらく耐えられなかったのではないか』と思うようになりました。

帰島支援センター前で

「おいしいものがあったら隣におすそ分けをする、互いに声を掛け合って暮らす、数少ないインフラをみんなで仲良く使ってきた…島で育まれたやわらかな人間関係、そして『風』…三宅に帰ってきて、『風が懐かしい』と言っていた人がいました。僕も京都で暮らしてから東京に帰ってきた時、同じように感じたことがあります」(吉村さん)。

島の人との交流、元気をもらった

2日目は宿泊している支援センターの草刈り。ここも草ぼうぼうだったのですが、草を刈っているうちに門やブランコ、滑り台などが現れてきました。もともとは伊豆小学校だったのが老人福祉施設となり、現在は帰島支援センターとなっているとのこと。翌日の昼間、近所の人がおにぎりや明日葉の天ぷら、クサヤの干物などを差し入れてくれて、きれいになった庭で交流会が開かれました。吉村さんは得意のケーナを披露。地域の人は島歌を歌い、みんなで「ふるさと」を合唱しました。自分たちはボランティアとして三宅島にいま滞在している、しかし、自分たちにとっての「非日常」が島の人にとっての「日常」であることを思い、島の人たちのふるさとへの思いを感じたひとときでした。

ボランティアはみんな赤い帽子をかぶっています。空き家になった家で作業をするため、一目でボランティアとわかるようにするためです。吉村さんは、竹芝桟橋で帰りの船から降りるときに、この帽子を見た島民から「ごくろうさま!」と声をかけられたそうです。また、吉村さんと同時期に活動したあるボランティアは、三宅島からの帰りにこの帽子をかぶっていたところ、都内の電車の中で三宅島出身の女子高校生に声をかけられたとのこと。赤い帽子が、そしてボランティアが、島民の皆さんの中で大きな存在になっていることが分かります。帰島支援には897人のボランティアが参加。うち、生協からは112人が参加しました。

2005年9月2日の三宅村の発表によると、同村の帰島世帯は1247世帯、帰島者数は2158人。帰島世帯の割合は75.8%、帰島人数割合は67.6%。SO2の発生がおさまり、ガスマスクなしでも暮らせるようになるまで、まだ時間がかかるのかもしれませんが、一日も早く島の人々の暮らしが戻ることこそ、ボランティアに参加した人々の願いでもあるのです。

島内の“野鳥観察”に最適スポット

*本ページの内容は2005年12月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合があります。あらかじめご了承ください。